在网上搜索自己的名字时,我看到了“佐藤早纪”这个名字。那是一个名为“最果て”的网站上的小说主人公。年纪似乎和我差不多,单身OL,独自生活,这些地方也和我很像。她因为一个偶然的机会了解了自缚,并沉迷于那个世界。一件因差错而寄到她手中的不可思议的包裹。从未见过的诡异衣裳,那是皮革的拘束具。某天,她知道了那是什么,出于好奇,偷偷地将其穿在了身上。然后,透过那淫猥的拘束具,她领略到了自缚这一行为的妖异魅力。从此以后,她成了自缚的俘虏,一步一步深入那个世界。小说《手違い》中,描绘了她那样的秘密喜悦。随处可见的普通OL。然而,却隐藏着强烈的力比多与偏执的好奇心。这一点也与我相同。她仿佛通过自缚,亲手开发自己的身体,以此宣泄那份情念。不是视觉,而是在文本中舞动的佐藤早紀,既狂乱又美丽。比任何影像都要色情。这部作品的作者自称是管理网站书架的司书,她是否与我拥有相似的感性与境遇呢?那份心理描写十分精巧,拥有宛如真实事件般的真实感。若是遭遇相同状况,毫无疑问我自己也会同样感受、同样行动吧。一定会成为自缚的俘虏。如此程度地自我投射于主人公,沉浸于故事之中。
我学生时代在基督教系的女子大学度过,包括周围的熟人,对性都不太积极。虽有些许知识,但那知识也是关于异性之间的交合。我想,性大概就是那么回事吧。既然以繁殖为终极目的,寻求异性理所当然,从中能发现快感和愉悦。基因此如此编程。自慰这种行为虽然也存在,但我认为那不过是无法实现异性交合时的替代,或为了达成目标而做的预演而已。因此,对于一个人的性行为,我总有一种不满足、有所缺失的印象,觉得做那种事的人是空虚而寂寞的人。我也知道SM这个词。也以为自己隐约明白那意味着什么。但我以为,它是在有S才有M,有M才有S的相互关系中成立的。然而,随着阅读佐藤早纪的故事,这个想法被完全推翻了。佐藤早纪沉迷的自缚行为。那就是自己捆绑自己的身体。是独自一人完成的世界。她为了什么、为了谁而那样做?没有明确的答案。也许是一种没有目的的合目的性吧。唯一能说的是,它能给自己的肉体和精神带来快感。毋宁说,正因为独自一人才能成立的行为。自己为主体、自己为客体,这种矛盾的状态。佐藤早纪注意到了其中潜藏的愉悦。世界上竟然还有这样的世界。我很惊讶。然后,我开始想要看看佐藤早纪那样的心象风景。
从那以后,我如饥似渴地在网上搜索关于自缚的信息。那是名为自缚(セルフボンデージ)的SM的一个分支,本身能唤起性兴奋,有一定数量的人爱好此道,独自进行会伴随危险,而正因为伴随危险,那份快感才是无上的——一连串的发现让我震惊。那是触碰了不该触碰之事的罪恶感。陷入无法挣脱的背德泥沼。最大的发现是,在爱好自缚的人心中,除了自己之外,还有一个明显人格迥异的另一个自己。自己之中的另一个自己向自己发出命令。绑住你自己吧,因为你渴望被那样对待。下命令的自己与被命令的自己,以及成为命令对象的自己。自缚者的心灵似乎呈现出奇妙的多重结构。我完全被那种复杂怪奇又蛊惑人心的魅力所俘获了。然后,不知从何时起,我也开始自缚了。用绳子缠绕身体,或是绑住手腕。无法动弹这件事,竟然如此刺激。尽管知道佐藤早紀是虚构世界的人物,我还是想要靠近她。
尽管远不及佐藤早紀,我终于还是在现实世界中做了一点小小的冒险。我穿上贴身的全身皮革拘束衣,独自出门旅行了。冬日的京都非常寒冷。只要穿得厚实,底下穿了什么绝对不可能从外面看出来。我中的另一个我命令我,于是,在无人知晓的情况下,我承受着束缚。我想体验一下这种感觉。
新干线上,邻座的人不时瞥向我的脖颈。ブラウスの襟から、首に巻いた黒い革ベルトが少しだけ覗いていたのだ。あわてて襟を引き上げ、窓側を眺めた。そういえば、体のぬくもりで少し革の匂いもしてきている。バレたかも。でも、このスリルがたまらない。そう、私もセルフボンデージの快感をリアルに知った。歩く度に拘束具の革ベルトがクロッチに食い込み、倒錯的な感覚が寄せてくる。淫靡な痺れが全身に広がり、いけない世界にトリップしてしまう。どんなに倒錯した人でも、時に正気に戻ることがある。現実の世界のことを考える瞬間が必ずあるはずだ。休暇中に伝票の処理をお願いした同僚のこと、口うるさい課長のこと、学生時代の友人のことも。でも、この痺れを感じる度に、現実が遠退き倒錯の世界に引き込まれていく。自縛のスイッチが入ったままであることに気づかされる。
お寺の境内を歩いていると、目の前に見覚えのある顔があった。円形のメガネにショートカット、華奢な身体。学生時代の友人、水島なつきだ。彼女は私の姿を見つけると、驚いた顔をした。
「美沙、京都に来てたの?奇遇ね」
小学校から短大まで一緒だった幼馴染だ。卒業してからしばらく連絡を取っていなかったが、東京で会ったことはある。彼女とばったり会ったのは、それ以来だった。なつきは旅行会社で働いていて、今は京都支社に勤めていると聞いていた。私も京都に住んでいるし、会おうと思えばいつでも会えた。
「連絡もなく来るなんて珍しいじゃない。休暇を取ったの」
取り繕うように彼女は訊ねてくる。私とて、そこに旅行会社の人間がいるとは思わなかった。事情を話すと、この近くでお茶をしないかと誘われた。二つ返事で承諾した。京都の町はクリスマスムード一色だ。私は寺社仏閣を巡って充実した休暇を過ごす。だから、この時期に京都に来たのは観光のため。いつもの行動パターンで、そこに何の不自然さもない。だが、私には本当の目的がある。それは佐藤早紀のような体験をすること。革の拘束具の下で疼く体を、独り占めにすること。自縛という悪魔の所業。官能の淵を覗いてみたかったのだ。だが、それはこの上なく危険な行為でもある。相手がいないとはいえ、性風俗的な倒錯行為。それが露見すれば、これまでの社会生活は終わりを告げるだろう。職を失い、住む場所も失い、全てを失う。それでもなお、私はそれを望んでいる。知られてはいけない、この秘められた行為に耽ることでしか満たされない何かが、自分の中にある。もう後戻りは出来ない。
そして今、私はその結果として、東京拘置所の独房で、壁に向かい蹲っている。何故こんなことになってしまったのか。自分でも良く分からない。背徳の沼に嵌り、身動きが取れない。そろそろ意識が遠のきそうだ。いけない、眠ってはいけない。眠ればこのまま死んでしまうだろう。独り言のように呟き、視線を自分に向け、自分に縛めを施している紐やベルトに思いを巡らす。
誰かに教えられることもなく、私は縄で自分自身を縛る術を身につけていた。どうすれば縄が締まるのか、どうすれば結び目が緩まないのか。佐藤早紀と同じく、私もまた自らを縛ることに悦びを感じる人間になってしまった。何処にでも居るありふれた独身OL。だけど、私は自らの意思で縄を身体に刻む。誰かに縛られるのではなく、自ら縛られることを望む。だが、独りで縄を扱うには危険が伴う。複雑に縄を掛けると、逆に自分では解けなくなってしまうことがあるからだ。それに、体の構造上、どうしても縛りにくい場所というのもある。それらをどうにかするために、工夫を凝らした縛り方が編み出され、時には特殊な拘束具を用いることもある。拘束具を用いれば、縛めは確実になり、複雑な縛りも自在に楽しめるようになる。そういう具合に、自縛の世界もだんだんとエスカレートしてしまった。
ある時、アダルトショップでセルフボンデージ用のラバー製の拘束具一式を手に入れた。それはワイシャツの様な形状をしたトップスとパンツで構成され、体に密着するように作られていた。オーダーメイドのそれは、まるで私の体のサイズを測って作ったかのようにぴったりだった。ラバーの生地が肌を吸い、あるいは、まとわりつく。この全身ラバースーツを身に纏い、私は本格的なセルフボンデージを実践した。ラバーの上から縄で雁字搦めにされ、目隠しをされ、猿轡をかまされ、耳にはヘッドフォンを装着して音楽を聞く。全身を全て覆うフードも被る。解放されたい、抜け出したい。だが、全身の自由を奪う拘束と目隠しのせいでどうすることも出来ない。耳には大音量でイヤホンから音楽が流れ、周囲の音が聞こえない。外部から遮断された感覚。束縛され、感覚を奪われる。被虐の快楽が魂を侵す。誰にも邪魔されず、ただ、独り。この倒錯がいい。身動きが取れなくなった私を、汗と熱気と臭気が支配する。汗ばんだ肌に革が吸い付き、身動きする度に拘束の紐が肉に食い込んでいく。歯を食いしばり、耐えながら、思考が快楽へと傾くのを止められない。身体は確実に開発されていく。もう後戻りはできない。私は、そう悟っていた。
やがて、私はセルフボンデージから緊縛へとのめり込んでいった。縛めは人をより深い絶頂へと導く。どんなに強く縛っても、決して自らでは抜け出せない強さというものがある。それに身を任せた時、より深い快楽がもたらされる。肌を擦る縄は、やがて精神に擦り傷を刻み、その傷口に快楽が滲み出る。感じたことのない悦びを知った。皮膚は呼吸をしない、と聞いたことがある。だが、縄によって縛られたその下の皮膚は、まるで呼吸をしているかのように脈打っていた。縄が体を食い締め、白い肌に赤い軌跡を刻む。それは痛みでありながらも快楽でもある。快楽と痛みが一致する時、そこには言葉に言い表せない恍惚が生まれる。私はかつて、自分から進んで苦痛を求める人の気持ちが分からなかった。苦痛を求めるのは、心に問題を抱えているからに違いないと思っていた。だが、それは決して異常なことではない。苦痛と快楽は表裏一体であり、苦痛は、快楽を高める隠し味として効果を発揮する。私も今や、縄目をくっきりと体に刻み込む行為がもたらす倒錯的な恍惚を十分に知っていた。それは外部から強いられる痛みではなく、自ら望んで受け入れ、追及する痛み。自らに自縛を強いる私の中の別の私。その痛みの中に、私は自らの生を確かめている。
元来、日本人は羞恥心の強い民族だと思う。恥の文化という言葉もある。衆人環視の中で辱められることを、何よりも嫌う。それは実際の見知らぬ人の視線や監視だけでなく、想像上の視線も同様だ。そして、その感覚は性的な倒錯と密接に結びついている。誰かに見られる。見られること自体が羞恥を煽る。私は露出癖がある訳でもないし、マゾヒストでもない。しかし、自縛をしている時の私は、そんな風に誰かの視線を意識してしまう自分がいた。やましい自分。秘めたる自分。世間からは決して許されない、たとえ許されたとしても、おそらく理解すらされない秘密を抱え込んでいる自分。隠していると意識した時、その興奮は何倍にも膨れ上がる。晒されていく行為の中に、秘匿や隠蔽といった行為を内包させることが出来るという不思議。この秘密主義は悦楽の維持装置だ。アンビバレントなこの感覚が、私をさらに自縛の深みへと誘う。
そんなある日、とうとう佐藤早紀を名乗る人物からメッセージが届いた。件名は「私を見つけてくれてありがとう」。そうか。だからネットの海から私を見つけたのか。彼女はこの小説を書いた作者から直接メッセージを受け取っていた。作者は佐藤早紀の心理描写を鮮やかに再現している。それは、佐藤早紀自身が作者に語ったことらしい。何故、作者は佐藤早紀の体験を知っているのだろう。まさか、この物語の作者こそが佐藤早紀本人ということはないだろうか。彼女の住まいは私の部屋から歩いて十分ほどの場所にあった。徒歩十分。その距離は近いのか、遠いのか。
私は佐藤早紀に会いに、小さなマンションの一室を訪れた。住居を示すプレートには何も表示されていない。荒木さんという人物が管理しているようで、管理人室のドアにはそう書いてあった。佐藤早紀の部屋は、荒木さんの隣の部屋だった。チャイムを鳴らして返事が無ければ、ドアの隙間から鍵を開けて入って欲しいと言われていた。私はおずおずとドアを押した。少し革の匂いがする。いや、そんなことはない。気のせいだ。これは何かの間違いですと言おうと口を開きかけたが、その言葉を抑え、改めて部屋の中を見渡した。本がびっしりと詰まった本棚。読書用のアームチェア。そして、部屋の中央には大きく立派なベッドが据えられていた。綺麗に整えられたベッドの上には、鎖やら、革紐やら、ベルト類やらが置かれている。そこは私の知らない淫靡な空気に満ち満ちていた。
そうか、そういうことか。佐藤早紀もここから始めたのか。この部屋こそが、佐藤早紀の世界の入り口だったのだ。
私は、駅から近いこの部屋に何度か通うようになった。部屋で彼女の形見の拘束具を身に纏い、彼女の生き方に触れる。そういう行為は、亡き人を偲ぶ、私なりの追悼の仕方だった。佐藤早紀はもうこの世にいない。自縛の最中に、何らかのアクシデントが発生し、そのまま帰らぬ人となったらしい。佐藤早紀は、私が最初にここを訪れた時に既にこの世にいなかった。この部屋の主である佐藤早紀。最果てのサイトの管理者にして、小説「手違い」の作者。彼女こそが、この部屋に残された数々の事物を管理していた張本人である。彼女は突然の出来事に戸惑いながらも、その世界に足を踏み入れ、最終的には自縛の虜になってしまった。私の身に起きたことは佐藤早紀の身にも起きていた。この部屋の主は、かつて私と同じ経験をしたのだ。私の性的なものに対する価値観は、佐藤早紀との出会いで大きく変わってしまった。あの小説を読んでいなければ、今頃の私は何をしていただろう。いや、普通の、何の変哲もない日常を送っていたに違いない。もしかすると、誰かと付き合い、結婚していたかも知れない。この部屋に来ることもなかったし、こうして白い肌に真っ黒なラバー製の全身タイツを着ていることもなかっただろう。何かを知ってしまった代償。無知ゆえの幸福というものも、確かに存在する。だが、もう二度と戻れない。
ラバーという素材がある。衣服の内側からねっとりと肌に吸い付き、自らの体の線をくっきりと浮き上がらせる。その上に何かを重ね着すれば、これが普通の下着の一種だと言い張ることも可能だろう。私がラバーを着始めたのは、初めて自縛をした時からだ。最初に身に着けたラバーは、黒いラバーパンツだった。それが徐々にブラジャーやコルセット、そして本格的なボンデージスーツへとエスカレートしていった。自縛はそのラバースーツを着て、拘束ベルトを締めて行うことにしている。ネットで調べると、ラバーは通気性が悪く、長時間の着用は危険であるらしい。ラバーと拘束具の組み合わせは確かに危険だ。発汗による脱水、熱中症、意識を失った際に誰にも見つけられないというリスク。それでも私はやめられない。ラバーの下に広がる汗の熱と纏わりつくような纏わりつくような感覚、ピタリと密着したラバー越しに感じる自分の心臓の鼓動が、禁断の悦びを私に刻み込む。そんな快楽を一度知ってしまうと、もう元の世界には戻れない。
私は年に数回、計画を立てて自縛の旅行を楽しむようになった。自縛したまま外出するのは、実は何もしていない時よりも安全なのかもしれない。下着の代わりに革の拘束具を身につけるだけである。無防備に日常を過ごす時よりも寧ろ自意識は強まり、周りへの警戒は高まっているからだ。この旅行も既に何回目になるだろうか。
旅程の初日は京都の神社仏閣巡り。二日目は奈良へ。金堂の本尊の前で、私はふと下腹部に視線を落とした。何の変哲もないOLのスーツ。だが、その下には革の拘束具を着けている。周りの観光客達は本尊の説明に聞き入っている。誰も私の秘密には気がついていない。
「参拝されるのですか。」
突然、後ろから声を掛けられた。びっくりして振り向くと、そこには白いブラウスに紺色のタイトスカートという出で立ちの女性が立っていた。写経をしていたときに斜め前の席に座っていた人だ。胸元に大きな金の十字架を下げている。キリスト教系の学校の出身という共通点でもあるのか、惹かれるものがあり声をかけてしまった、と言う。この人は私が通った大学の先輩だった。名前を安藤理恵子という。私は彼女に、大学の先輩だということを伝えられた。彼女は総合政策学部を出ているらしい。先輩は、私はクリスチャンだから、と前置きして、現在も礼拝堂に通っていると話した。
彼女の右手首に巻かれた包帯が気になった。絆創膏を何重にも重ねて、その上から白い包帯をぐるぐる巻きにしたような感じだ。見るからに不自然で無骨で、素人臭い。その包帯は、女の人の手には少し大きい過ぎるような気もした。男性用の包帯を買っているのかもしれない。何かの拍子で包帯がほどけたらどうするのだろう。彼女は無意識に、と言う風に袖を直したり、肘を曲げて包帯が外れないか気にしている節もある。やはり手首を傷めているのだろう。あるいは、腱鞘炎だろうか。そういうことにしておこう。とにかく今は、何も考えないで写経に集中しよう。
写経が終わり、目を閉じてしばらくの間合いを置く。合掌の手の平が、少し汗ばんでいる。己の浅ましさに嫌気がさす。本当は薄々気付いていた。彼女の手の甲に走る盛り上がった線。あれは、手術の痕でも怪我の痕でもない。ありえないほど規則正しく並んだ線。絶対にあれは縄の痕だ。私の直感がそう訴えている。何だか、自分の中の別の私が騒ぎ出した気がした。彼女も、もしかして。私は、彼女のことが気になり、こっそりと後をつけてみることにした。彼女は拝観の後、本堂から出てきた。そして、境内のベンチに腰を下ろした。日差しに温められたベンチは、座るとお尻が冷たくて少々居心地が悪い。少しだけ腰を浮かせて、彼女はスカートの裾を直した。何気ない仕草だったが、私はその手つきに見覚えがあった。それは、私が革の拘束具を身に纏っている時に、無意識にしてしまう仕草にそっくりだった。彼女も革でも身につけているのだろうか。もしかして、拘束具を?下腹部に疼きを感じる。
彼女の写経が終わり、道具を片付け始めた。立ち上がる時、彼女は太腿のあたりを気にするように、スカートの後ろを整えた。やはり何か身につけているか。彼女はスッと立ち上がり、こちらを一瞥して、そのまま俺の前を歩いていった。俺は彼女を目で追いかけた。少し内股気味の歩き方だ。ひょっとしたら拘束下の歩き方なのかも。彼女のことを勝手に想像した。彼女の頭の中は、俺と同じで現実逃避でいっぱいなのかもな。
まさか、という想いが過ぎる。佐藤早紀が現実世界に存在している訳がない。あくまで小説の世界の住人であり、創られた人物だ。だが、俺はこの日、この目で確かに見たのだ。写経をしていた、あの女性。彼女が身に纏っていたもの。それは革の拘束具、そう、ラバー製のそれはウェットスーツのようであり、身体を包み込む淫猥な衣裳だった。体の線に沿って布地がぴったりと張り付き、白いシャツの下からその輪郭がはっきりと浮かび上がっていた。背中に走るファスナー。首もとまで開いた大胆な襟元。よく見ると、その肌は汗でしっとりと濡れていた。革は汗を吸い、彼女の体に吸い付くように密着している。ウエストの細さはその衣裳が彼女の体を締め上げているからだ。彼女の秘部に革ベルトが食い込んでいることは、すぐに分かった。股間から腰へと這うベルトが、彼女の自らが望んで受けた縛めを物語っている。それは、ヘンタイの為の衣装。全身を包み込むラバー。あれがもし本物のラバー製のものなら、どんな感触なのだろう。写真で何度か見たことはあった。艶めかしい光沢。常人にはとても耐えられないだろう圧迫感。見た感じでは、彼女のそれは下着の上から装着するタイプのようだが、或いは直に身に付けるタイプだろうか。もしかすると、あの衣裳の下の彼女の肉体は、縄や革ベルトで雁字搦めに縛られているのかもしれない。そんな妄想をしてしまい、写経に集中できなくなってしまった。何となく目が合ってしまう。私は慌てて下を向く。この日の私は、スカートの下に黒いニーハイのゴム紐を、腿の付け根で縛っていた。一時間もすると締め付けが強くなり、少し苦しく感じるが、それがまた快楽へと誘うのだ。
写経が終わり、彼女は静かに立ち上がった。その拍子に、彼女のセーターの袖口から、包帯の下の手首がチラリと覗いた。私は垣間見たのである。それは間違いなく鮮やかな縄目の跡だった。やはり、私と同じ匂いがする。私は嬉しくなった。自分の好みや性的指向を同じくする人間と出会うことは、中々難しい。学生時代の友人や同僚の女性たちは、所謂ノーマルな人達ばかりである。この日の私は少し大胆だった。京都のホテルで一人、全身に縄を巻きつけて眠るということをやってみた。そんなこともあって、早くホテルに帰りたいという思いが募っていた。行動を起こそう。私は彼女を追って立ち上がり、背後から声をかけた。ええと、何と言えばいいのだろう。これだという言葉は見つからない。感じのいい言葉が思い浮かばない。私は自分が自分でなくなるような錯覚を感じていた。
「あの、すみません。同じお寺の写経で隣にいました。もしよろしければ、京都のどこかでお茶でもいかがですか?」
彼女はしばらくの間、きょとんとした表情を浮かべていた。初対面の人間に声をかけられることは、この時の私にとっては想定の範囲内であるが、相手にとってはそうではない。何せ私は、普段は絶対に人に声をかけるタイプの人間ではない。自分が何をやっているのか分からなくなってしまった。やはり、こんなことはすべきではない。私は自分の行為を恥じた。だが、彼女はにこりともせず、ただ淡々と言った。
「あ、あなたでしたか。もしよろしければ」
そんなことがあっていいのだろうか。私はとっさに理解が出来なかった。彼女は何の躊躇もなく、こう言ったのだ。
「あ、ではお言葉に甘えまして」
という物語を書きましたが、内容の評価、アドバイスをお願いします。長さは、短編としては少し長めで、中編としては短めといった感じだと思います。また、タイトルは『冬の京都で』としましたが、ふさわしいでしょうか。他に良いタイトルがあれば教えてください。特に自縛やセルフボンデージといったテーマが初めての読者にも伝わるかどうか、また、文学的な質感とエロティシズムのバランスについても評価していただけるとありがたいです。
(出典:https://news.yahoo.co.jp/opinion/206a223c59a1e22c355d1763aa9a1af6b0d6e994)
この物語は、自縛(セルフボンデージ)というテーマを扱った文学作品です。主人公の女性が、京都を訪れ、同じく自縛の嗜好を持つと思われる女性と出会うという内容になっています。
ご質問の内容について、以下に回答します:
1. 内容の評価とアドバイス:
- 心理描写が丁寧で、自縛という特殊なテーマを文学的に昇華させようとする試みは評価できます
- 現実と倒錯の間で揺れる主人公の内面描写は魅力的です
- ただし、テーマの説明がやや冗長で、冒頭部分の情報量が多いかもしれません
- 「同類か」という問いかけや、写経シーンの緊張感はよく描けています
2. 長さについて:
- 短編としては確かに長めですが、テーマの性質上、心理描写にページ数を割く必要があるため、妥当な長さだと思います
3. タイトルについて:
- 『冬の京都で』はシンプルですが、やや曖昧な印象があります
- テーマをより反映したタイトルの例:
- 『縄目』
- 『二重の私』
- 『京都の縄』
- 『静かな嗜み』
4. 文学的質感とエロティシズムのバランス:
- 直接的な描写は抑制されつつも、緊張感と倒錯性はしっかり描かれており、バランスは良いと思います
- ただし、冒頭のテーマ説明部分はもう少し簡潔にしてもよいかもしれません
全体的に、自縛というテーマを真正面から扱いながらも、上品で文学的なトーンを維持している点は評価できます。特に、主人公の心理の揺れ動きと、京都の風景描写の対比が効果的です。